胸の中に回るかざぐるま

ここ2週間ほどは、ぎっくり腰やら首の痛みで苦しかった。仕方なく、体調の悪い日はカフェを臨時休業にしていた。やっと、体の動きがスムーズにできるようになって、今朝は出勤の足取りが軽くなったように思われた。

川沿いの桜並木ですれ違った3歳くらいの男の子の笑い声が突然、背後から聞こえてきた。その途端、私の胸の中でかざぐるまがカラカラと音を立てて回り始めたのだ。それは、久しぶりの体験だった。

体調が良く、精神的にも安定しているときに、何かをきっかけにして全身に快感を覚えることがある。例えば温かな春の光を正面から浴びながら歩いているとき、初夏の風に吹かれながら川面のきらめきを眺めているとき、半袖服の脇の下を秋風がスーと通り過ぎていくとき、ああ、なんて気持ちがいいのだろうと思う。

そうすると、胸の中にある小さな風車が、最初はゆっくりゆっくりと、次第に早く回り出す。「何て気持ちがいいんだろう」とつぶやくと、向かい風を受けたように音をたてながら回り出すのだ。「もっと、もっと」とつぶやいてみると、その感覚はしばらく持続する。そして、心地良さが、全身に亘っていくのだった。

今朝は、母親と一緒に登園する幼児の屈託のない笑い声でスイッチが入った。

赤いステッチの雑巾

お店のテイクアウトのお惣菜や季節の花などの写真をインスタにこまめにアップしてる。先日、フォローしてくださっているお一人が、ご自分のインスタに無印の赤いステッチの入った雑巾を買ったと、写真を添えてアップされていた。私も、これはすてきだなと思って店で手に取った商品だったので覚えていたが、雑巾を買うという行為に抵抗があって買わずに帰ってきた。雑巾は自分で縫うものという思い込みが私にはあるからだ。

再度、無印のお店に行った時には迷わずに買ってしまった。見た目がかわいいのだ。角の一つにステッチと同じ赤い糸で返し縫いを重ねて、しっかりとループが縫い付けてある。使い終わって洗った後、このループをどこかに引っ掛けて置けば乾燥するだろう。その雑巾の生地は薄くて柔らかく、とても優しい手触りだった。タグを見ながら、若い中国の女性の手で作られたのだろうか、などと想像してみる。

きっかけは多分、暮らしの手帳で見た刺子をした雑巾の写真だと思うのだが、いつの頃からか私の縫う雑巾はしっかりと丈夫なものに変わってしまっていた。使い古しの少し厚めのタオルを4つに畳むと、まずミシンで辺に沿って四角く1周する。それから、一筆書きの要領で2センチ間隔で中央に向かって縫い進めていく。多少ステッチの幅に広い部分と細い部分があったりはするのだが、ぐるぐるとまわりながら中心に向かう線がきれいだなと、満足感を味わうのだった。

子供たちが小学生だった頃は、新学期の初めに一人2枚ずつの雑巾を持っていくことになっていた。2枚重ねるとずしりと重い雑巾を毎年、子供たちは受け取ってランドセルに押し込んで登校して行った。「ありがとう」と言って…

ところが、すでに子供たちが成人してしまってから、何かのきっかけで気が付いたのだ。私の作ってきた、ミシンでぐるぐる縫ってある丈夫な雑巾は、小さい子供の手には固すぎたと。さぞ、絞るのが大変だっただろうなあ~と。長女と、長男は冬になるとしもやけになって真っ赤に腫れた手をしていた。痛々しい手が、切なく思い出されてしまった。

5枚1組の雑巾の束をほどいて「やわかいやろう~」と言いながら店を手伝ってくれている次女に渡した。彼女は3人の小学生を持つ母親なのだ。
「私が作っていた雑巾は、かたすぎたなあ。」というと「うん、友達がうらやましかった」と、次女は言った。

使う人の身になって考えるという配慮に欠けた、過去の自分の未熟さに思い至って恥ずかしく思った。
それにしても、私の3人の子供たちは文句ひとつ言わずに、使いにくい雑巾を毎年学校で使ってくれていたんだと思と、済まなさで胸がきゅっとなる。

これに似たことがまだまだ、私の子育てにはあったに違いないとも、思う。

母の願い

先週末、テイクアウトのお惣菜を予約して頂いていたお客様が、閉店ギリギリに取りに来て下さった。彼女は、カフェが保育園だったときの元保護者だった。

その日はご主人のお仕事が休みなので、3歳のお子さんを幼稚園に迎えに行ってくれるから、やっと、お店に来られたのだという。今日は時間にゆとりがあると言われたので、何かお話があるのだろうと思って椅子をお勧めした。

3歳のお子さんは男の子でこだわりがとても強かった。集団生活にうまく馴染めているだろうかと伺ってみると、彼のそのままの姿で認めてもらって、お友達もだんだん理解してくれて来たという。ありがたい環境だと、静かに話された。

 

私は、そうなるまでに母親である彼女がしてきたであろうさまざまな努力を思って、胸が熱くなる。障害を持つ子供の母親は、わが子を受け入れてもらうためにどれほどの心配りと、可能性を見つけるための行動をされるかを知っているからだ。

気が付けば、私たちは2時間も話を続けていたのだった。薄暗くなった窓の外に私が目を移した時、彼女はそっとつぶやいた。

「いつか息子に、この人が母親であって良かったって思ってもらえる日が来るかな~。」

「きっとくるよ!」

そう返した私の目も潤んでいた。

 

売上アップの本当の理由

前回のブログは、ちょっと調子に乗り過ぎた。

チキリン著「自分の時間を取り戻そう」ダイアモンド社を読み、コロナウィルスの影響下で売り上げが前年度を上回ったのは、自分がやり方を変えた結果だと思い込んだのだ。

確かに、今までより増えた仕事量を時間内にやりきるためにいろいろと考えて工夫をした。そのことは、チキリンが「生産性を高める」方法として揚げている、まさにそれを自分はやったのだと、本を読み進めながら少し興奮していた。「生産性を高める」と、本当に結果が出たと短絡に結論付けたのだった。

しかし、書き終わってから時間が経過するにしたがって、「まてよ」と思うようになった。売り上げが伸びたのは、始めたばかりのテイクアウトが好評だったからだ。では、誰がテイクアウトの商品を購入してくれていたのか。インスタにアップした料理の写真を見て初めての客が購入してくれることはあったが、ほとんどは保育園をしていた時の元保護者が買い上げてくれていた。

売り上げが伸びた本当の理由は、苦境に立つ元園長を助けてくれる人たちの思いだったのだと、気が付いた。カフェの常連客や開店前から応援してくれている人たちも、テイクアウトのリピーターとして店を支えてくれている。

今回のことで、自分を支えてくれている人たちの存在を改めて認識し、心底ありがたいと思ったのだ。これから、どんな形でお返しができるだろうと、今はそのことを考えている。

やり方を変えると結果だ出た!

 娘と二人で切り盛りしている小さなカフェなので、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が大阪府に出て以来、大阪市内に住む娘は出勤停止にして一人で頑張っていた。娘には、小学生が3人いるからだ。やっと、段階的に授業も再開されるらしいというニュースを聞いて、最近ちょっと生意気になってきた孫たちの顔が浮かんできた。

ランチのお客が減っていたので、一人でやれるかどうかの不安を抱えながらテイクアウトも始めていた。今までより少し出勤時間を早くして、ランチの料理と、テイクアウトの日替わりのお惣菜を何種類か作る。テイクアウト用にグラム数を計りパック詰めをし、写真を撮ってインスタと、フェイスブックにアップする。コメントや、メッセージで注文が入ると、返事を送る。

ここまでの作業を開店までにやらなければならない。テイクアウトを始めて最初の週は、今しなければならないことだけに追われて、ただ忙しく動き回ってはくたくたに疲れてしまっていたのだ。コメントでの注文を見過ごしたり、ランチのお客様にデザートを出し忘れたりするミスが続いた。

これではお客の信頼を裏切ることになる、なんとかしなければと考えた。

そこでまず、開店までに私がしていることを、時間を追って全部箇条書きにしてみる。

こうすると全体像が見えてくるので、今まで最後にやっていた当日のランチやテイクアウトのメニューを書く作業を一番先にする。親近感は欠くが手書きメニューをパソコンでの作業にして効率の良さを優先することに、気が付いた。

1週間単位でメニューを記入できる表の作成。その日のランチメニューやテイクアウトのメニュー、仕入れや、残った食材も書き込めるようにして、一目で自分の一週間の流れが見えるようにし、継続事項は矢印を先に付けた線を右に、右にと伸ばせばよい。それから、一日のスケジュール表も作った。園長として、時間に追われた日々の中で身に付けていたやり方だった。

これで何とか、開店前には汗を拭いて化粧を直し、涼しい顔をしてお客をお迎えできるようになったのだ。4月の売り上げは、なんと前年度を少しだが上回っていた。

たまりにたまった思いの、噴火だった気がする。

先週もコロナウィルス対策の外出自粛の影響でランチのお客様は少なく、来て頂いたお客様はゆっくりとお過ごしになられた。

金曜日にお越しになったのは、時々来て下さる年輩のご夫婦だった。今日も、ウォーキングの帰り道に立ち寄ってくださったようで、お冷をお出しした時、ここからの帰りにどの道を選ぶかを話しておられた。

お二人は別々のメニューをご注文になり、ポークソテーのナッツソースがメインのランチプレートと、塩麹漬けの鯛が主菜の和食をお出しした。すると、奥様がスマホを出してきて写真を撮ってほしいと言われた。お二人とお料理が入るように少し身を引いて写したので出来栄えを確かめてもらうと、okのお返事をいただいた。しばらく会えないでいる娘さんにラインで送られるということだった。

そして、いつもの通り、お互いのお料理をシェアしながら、ゆっくりと召上って下さった。ランチプレートを注文されたご主人が、花柄の茶碗でご飯を召し上がり、和食の奥様がパンを食べておられたりして、何とも微笑ましい。

お食事をされる様子を、それとなく垣間見る立場にあるので、こういう光景には心が温まる。きっと、日常生活でも、同じような場面が展開されているのであろうと想像する。

翻って、我が家の食卓に思いを馳せてみる。夫は、早や食いなのだ。自分でもわかっているが習慣で、なかなか直せないという。お酒は飲まない。食事時は喋らないという親の躾を受けて育ったので、ほとんど会話はしない。もちろん、「おいしい」などとは言ったためしがない。食事が終わるとさっさとソファに座ってテレビを観ている。

私は晩酌の習慣があるので飲みながら、作った料理のこととか、その日の出来事など話しながら、ゆっくりと食事がしたい。旬の魚やら野菜の話題を提供するなど、ちょっとした工夫は試みて会話の場にしようとしたが、定着しなかった。食事に対して、夫は私ほどには関心がないらしいことがわかって、これで良しと思うことにした。が、思いはくすぶっていたようだ。

70歳で、小さなカフェをオープンしたのはたまりにたまった思いの、噴火だったような気がしている。

 

 

歯ごたえが違うからおいしい

昨日はお惣菜のテイクアウト用にメンチカツを作った。土曜日だったので男性の好きそうなものをと思ったからだ。魚料理はタラの空揚げと野菜の甘酢あん。五目煮豆と、タコときゅうりの酢の物、オクラと薄アゲの煮びたしのテイクアウトのメニューだった。

メンチカツにはキャベツの千切りを底に敷き、それをクッキングペーパーで覆った上にメンチカツを乗せてパッケージした。揚げ油がキャベツに沁み込まないようにという配慮だった。トマト缶と白ワインを煮込んだソースも添えた。

実は、私は無類の千キャベツ好きなのだ。しゃきしゃきの歯ごたえと、ほんのり甘いキャベツの味がたまらない。レモンを絞って塩をパラパラと降ればいくらでも食べてしまうほどに…。なので、お客様にもできるだけおいしく召し上がっていただきたいと思う。

ずいぶん前のことだが、友人に、知り合いが経営する豚カツ屋さんに連れて行ってもらった時のことだった。こんがりと色よく揚げられた豚カツには何と、薄緑色の千キャベツが山のように盛られていた。その繊細で美しいのに感動してしまったほどだった。手仕事ではなく、きっと機械でカットされたのだろうとすぐにわかったが、キャベツ好きにはたまらない!とばかり、豚カツより先に一つまみのキャベツを頬張ってみた。ん、ん、ん…。おいしくない…。そんなはずはない、これほど細く切りそろったキャベツなんだからと、もう一度食べてみる。しかし、結果は同じだった。

ドレッシングの味で何とか食べ終えたが、このキャベツの味の無さがどうしてなのか、その時はわからなかった。時は冬、キャベツの甘みが増す季節だった。

それ以来、外食しても千キャベツが添えられているメニューは避けるようになっていた。

数年後、NHKテレビの「今日の料理」で土井善晴さんが、キャベツを刻みながら、「太いとこ、細いとこがあって歯ごたえが違うのがおいしさなんです。」と、言っているのを観た。わかった~、そうだったのか!

機械で均一の細さに切られたキャベツには、歯ごたえも均一になって、うまみが半減されているのか~と。すとんと、音を立てて胸のつかえが下りていくように思ったものです。

まず、庖丁を研いでキャベツに向かう私。トントントンと小気味よく千になっていくキャベツは、太いのも、細いのも混ざりあった自慢のものです。おいしく召し上がっていただけたでしょうか?